2019.05.03 07:17|にゃー(日々のつぶやき)|
久しぶりのブログです、もう誰も見ていないと思うので、ひっそりと(*´ω`)┛
三女が産まれて二年が過ぎようとしています。
三女はとても陽気な子です。
赤ちゃんが微笑むことがありますが、三女の場合は、ニコ、ではなくキャハハハハーッ♪ でした。
ちょっとあやすと爆笑するんです。
赤ちゃん、こんな笑う!? ってくらい。
そして、とても手のかからない子です。
おむつ換えのときに、自分で足を上げたり、おしりを浮かせておむつをはかせてもらいます。
保育園にもすぐになじんで、毎日、機嫌よく楽しんでいます。
ひとり遊びも上手で、保育士さんの手を煩わせることが少ないようです。
ちょっぴりお調子者です。
保育士さんにウケることをわかっていて、笑わせるそうです。
「Mちゃんはひょうきんですよー! ママに似たのね」 と保育士さんに断言されました。内心、
なんでバレてるんやろ……
とドキドキしてますが。まぁ、私に似ていそうです。
ぐずって泣いて、これはしばらく床に転がっていそうだな…と思ったら、すっくと起き上がっておもしろいポーズ? 踊り? をしはじめたときには、私のほうが唖然としてしまいました。気分転換が上手なんでしょう。
誰が育てても育てやすい子が生まれたようです。
長女は、育てにくい子でした。
人見知りが激しくて預けることも出来なかったし、小学生の頃には不登校、体調不良に悩まされました(ほんの少しASDグレーゾーンだったようです)。
性格的には平和主義でお友達思いなので、今も少し身体が弱い面もありますがとても元気なJKになっています。
次女は、マイペースで優しい子です。育て難い子ではありませんでしたが、小学六年生で脳腫瘍が発見され、手術をしました。後遺症もあるので、お薬の調整や治療方針など、悩まない日はありません。
子育てって大変です…。
私は、二人ともに不登校を経験し、心理学の本を読んだり、脳腫瘍をめちゃくちゃ調べたり、毎日子供を励まして必死になんとか生活していた時期が長ーいのです。
周囲を見回すと、そんなハードな子育てしているママはそれほどいないんだけど…。
みんな、それぞれお仕事したり、反抗期があったり、大変なことはあるでしょうが。
私にしたら、反抗期になったらこうすればいいなぁ、とか、学校へ行かないときにはどうるす、とか。
苦労した分、もうわかるようになってしまった。
スクールカウンセラーの先生からのアドバイスも、既にもう実践済みです!
と胸張って言えるようになっちゃった。
カウンセラーさんと専門用語で会話できちゃうし(汗)、きりたんぽのオススメとか、関係のない話で盛り上がってカウンセリングが終わったりもするのです。
次女の受験シーズンですが大変とは思わないし、三女の食物アレルギーも酷いのだけど、でも、アレルゲン食べなきゃいいだけじゃん?
脳腫瘍に比べたら、食物アレルギーは私の手作りごはんとコンビにで対応できるんで、別に大したことじゃない。
これ、三女が一番楽なんじゃ…(汗) 産まれてくる順序違うやろ。
と思うんですよね、、。
でも、そう上手くはいかないのが人生ってやつなのでしょうか。
もし神様みたいなのがいて、おまえはこう生きるのじゃ! って決めていたら、相当イジワルなんじゃないかと思う。
ロールプレイングゲームで言えば、ハード、スーパーハード、の次に、初心者モード!!
いやいや、そりゃないっしょ…。
でも、そんな中で、気付いたこともあるんです。
次女の病気がわかって三日後に、三女の妊娠がわかりました。
手術前だったので、毎日車椅子を押して歩いたり、次女のつっかえ棒として支えて歩いていた頃で、ストレスか負荷のせいで私は頚椎ヘルニアになり、手術後はさらに頚椎ぎっくりになり、痛くてベッドに横になれなかったりという生活でした。
そんなときもお腹の中で、三女ちゃんはママガンバレー! なんて思っていたのかもしれません。
私の会ったことのない、父方の祖母がいます。
父親は確か9人兄弟で、みんな年上です。特攻隊で亡くなった方などもいて、父親も、私の三女と同じく、ぽん、と離れて生まれた末っ子でした。
いまになって調べてみると、父はどうやら終戦後に授かった子のようです。
祖母は身体が弱い人だったらしいのですが、
「戦争が終わったから、もうひとり育てようかしら」
なぁんて、思ったのかもしれません。私だったらそう思うだろうな。
上の子の命がピンチなとき、もうひとりの命というのは希望としか言いようがないです。
うちの次女は幸いなことに、直接的な手術で命の危険とは思っていませんでしたが、でもいろんな危険を想定されていて、視力がなくなるかも…とか、知的障害などの可能性はありました。
イジワルな神様も、
「上の子2人のお世話がまだ大変だから、3人目は託児できる子にしとくかー。オマケにちょっと明るい性格」
と思ってくれたのかもしれない…。
というか、また長女みたいなのが生まれてたら私の人生崩壊してた(汗)
明るくて元気な三女、いまはイヤイヤ期でそれなりに手もかかるし大変ですが、感覚として孫みたいに可愛いだけ。
人形作る時間もないし、三女がいなかったら今ごろ人形作れていたなぁとは思いますが、私の人生は三女抜きには語れないなぁ、と思うのです。
祖母も、きっと父親を可愛がったのでしょう。会ったこともない祖母だけれど、昔も今も思いは一緒なんじゃないかと思います。
そして、被災地でもきっと、同じような想いを持った方が沢山いるんだろうなぁ……。
母親の思いって、どんな偉い人でも、どこの国で、もどんな状況でも、そんなに違わないんじゃないかしら。
なぁんて、スーパーハードモードの後に思ったのでした。
次は隠しダンジョンとか出現するかもね。
三女が産まれて二年が過ぎようとしています。
三女はとても陽気な子です。
赤ちゃんが微笑むことがありますが、三女の場合は、ニコ、ではなくキャハハハハーッ♪ でした。
ちょっとあやすと爆笑するんです。
赤ちゃん、こんな笑う!? ってくらい。
そして、とても手のかからない子です。
おむつ換えのときに、自分で足を上げたり、おしりを浮かせておむつをはかせてもらいます。
保育園にもすぐになじんで、毎日、機嫌よく楽しんでいます。
ひとり遊びも上手で、保育士さんの手を煩わせることが少ないようです。
ちょっぴりお調子者です。
保育士さんにウケることをわかっていて、笑わせるそうです。
「Mちゃんはひょうきんですよー! ママに似たのね」 と保育士さんに断言されました。内心、
なんでバレてるんやろ……
とドキドキしてますが。まぁ、私に似ていそうです。
ぐずって泣いて、これはしばらく床に転がっていそうだな…と思ったら、すっくと起き上がっておもしろいポーズ? 踊り? をしはじめたときには、私のほうが唖然としてしまいました。気分転換が上手なんでしょう。
誰が育てても育てやすい子が生まれたようです。
長女は、育てにくい子でした。
人見知りが激しくて預けることも出来なかったし、小学生の頃には不登校、体調不良に悩まされました(ほんの少しASDグレーゾーンだったようです)。
性格的には平和主義でお友達思いなので、今も少し身体が弱い面もありますがとても元気なJKになっています。
次女は、マイペースで優しい子です。育て難い子ではありませんでしたが、小学六年生で脳腫瘍が発見され、手術をしました。後遺症もあるので、お薬の調整や治療方針など、悩まない日はありません。
子育てって大変です…。
私は、二人ともに不登校を経験し、心理学の本を読んだり、脳腫瘍をめちゃくちゃ調べたり、毎日子供を励まして必死になんとか生活していた時期が長ーいのです。
周囲を見回すと、そんなハードな子育てしているママはそれほどいないんだけど…。
みんな、それぞれお仕事したり、反抗期があったり、大変なことはあるでしょうが。
私にしたら、反抗期になったらこうすればいいなぁ、とか、学校へ行かないときにはどうるす、とか。
苦労した分、もうわかるようになってしまった。
スクールカウンセラーの先生からのアドバイスも、既にもう実践済みです!
と胸張って言えるようになっちゃった。
カウンセラーさんと専門用語で会話できちゃうし(汗)、きりたんぽのオススメとか、関係のない話で盛り上がってカウンセリングが終わったりもするのです。
次女の受験シーズンですが大変とは思わないし、三女の食物アレルギーも酷いのだけど、でも、アレルゲン食べなきゃいいだけじゃん?
脳腫瘍に比べたら、食物アレルギーは私の手作りごはんとコンビにで対応できるんで、別に大したことじゃない。
これ、三女が一番楽なんじゃ…(汗) 産まれてくる順序違うやろ。
と思うんですよね、、。
でも、そう上手くはいかないのが人生ってやつなのでしょうか。
もし神様みたいなのがいて、おまえはこう生きるのじゃ! って決めていたら、相当イジワルなんじゃないかと思う。
ロールプレイングゲームで言えば、ハード、スーパーハード、の次に、初心者モード!!
いやいや、そりゃないっしょ…。
でも、そんな中で、気付いたこともあるんです。
次女の病気がわかって三日後に、三女の妊娠がわかりました。
手術前だったので、毎日車椅子を押して歩いたり、次女のつっかえ棒として支えて歩いていた頃で、ストレスか負荷のせいで私は頚椎ヘルニアになり、手術後はさらに頚椎ぎっくりになり、痛くてベッドに横になれなかったりという生活でした。
そんなときもお腹の中で、三女ちゃんはママガンバレー! なんて思っていたのかもしれません。
私の会ったことのない、父方の祖母がいます。
父親は確か9人兄弟で、みんな年上です。特攻隊で亡くなった方などもいて、父親も、私の三女と同じく、ぽん、と離れて生まれた末っ子でした。
いまになって調べてみると、父はどうやら終戦後に授かった子のようです。
祖母は身体が弱い人だったらしいのですが、
「戦争が終わったから、もうひとり育てようかしら」
なぁんて、思ったのかもしれません。私だったらそう思うだろうな。
上の子の命がピンチなとき、もうひとりの命というのは希望としか言いようがないです。
うちの次女は幸いなことに、直接的な手術で命の危険とは思っていませんでしたが、でもいろんな危険を想定されていて、視力がなくなるかも…とか、知的障害などの可能性はありました。
イジワルな神様も、
「上の子2人のお世話がまだ大変だから、3人目は託児できる子にしとくかー。オマケにちょっと明るい性格」
と思ってくれたのかもしれない…。
というか、また長女みたいなのが生まれてたら私の人生崩壊してた(汗)
明るくて元気な三女、いまはイヤイヤ期でそれなりに手もかかるし大変ですが、感覚として孫みたいに可愛いだけ。
人形作る時間もないし、三女がいなかったら今ごろ人形作れていたなぁとは思いますが、私の人生は三女抜きには語れないなぁ、と思うのです。
祖母も、きっと父親を可愛がったのでしょう。会ったこともない祖母だけれど、昔も今も思いは一緒なんじゃないかと思います。
そして、被災地でもきっと、同じような想いを持った方が沢山いるんだろうなぁ……。
母親の思いって、どんな偉い人でも、どこの国で、もどんな状況でも、そんなに違わないんじゃないかしら。
なぁんて、スーパーハードモードの後に思ったのでした。
次は隠しダンジョンとか出現するかもね。
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